お世話になっております。長いので、よろしかったらAIに要約をお願いしてください。
連日、作文や自己PRカードの添削、個別面接練習に取り組んでおりますが、
「なぜ、現代人は創造することが苦手になってきたか」という問いに思うことがあります。
AIが私たちの創造力や思考力を奪っていくのか、それとも私たちの創造力や思考力を補うためにAIが進化するのか、これは「鶏が先か卵が先か」という因果関係にあるとも言えます。
実のところ、私たちの創造力は低下し、AIに依存せざるを得ない時代はすでに到来しているのではないでしょうか。
私には空白の少年時代があります。異国で育ち、言語が通じず、アニメもゲームもスマホもない中、家の中で笛を吹いていました(TT)
戦後のような生活
やがてピアノで曲を書き、歌詞を考えるようになり、創造力を鍛えたというより、それは私にとってはもはや死活問題だったのです。
では、現代はどうでしょう?
何か新しい遊びを考えることはありますか。手を伸ばせばスマホがあります。すでにたくさんのものが提供されている世界に私たちは生きていませんか?
別問題で、AIの進化によって私たちの人間性、感情や他者への理解がより乏しくなるという考えもあります。
表面的には正しいように思えますが、本当にそうでしょうか。
学校で誰かが孤立した時、その子を救おうとする人はどれほどいるでしょうか。
社会で誰かが孤立した時、その人を救おうとする人はどれほどいるでしょうか。
そもそも論、私たちは自分の気持ちさえ理解できないのに、どうして他人の気持ちを理解できましょうか。
学び、自立することの重要性
ニ・ニ六事件を教えるとき、
「あの時はまだ薄暗い朝方でね、雪がちらついていたんだ。すごく寒かった。その時、塀の向こうに兵隊さんと戦車の列が通っていくのが見えて、驚いて家にいる母を呼びに行ったんだ。不作が続いた東北出身の貧しい兵隊さんたちがついにクーデターを起こしたようだ。」
国語の「故郷」を教えるとき、
「魯迅(ろじん)は医学と文学を日本で学んでいてね、孫文(そんぶん)もそうだけど、中華思想(自分たちが世界の中心)という昔ながらの考えに危機感を覚え、何かしなければ祖国が列強に滅ぼされると思っていたんだ。だから魯迅の小説には祖国に対する皮肉、これからの若者に対する期待が込められているんだ。それを読んで育った北京の若者たちが起こしたのが五・四運動なんだよ。」
「ニ・ニ六事件は1936年」「故郷の作者は魯迅」というものが、いかに「学び」から遠いことか。
よく学び、自立せよ。
それこそが、本来の教育だと信じ、日々生徒たちと向き合っております。創造力や人間性をAIが奪っていくのではなく、それは私たちが選択する一つ一つの行動にかかっているのではないでしょうか。






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